【一般公開版事案分析】動き出した日本版「スパイ対策法」~豪・独の事例から読み解くインテリジェンス機能の本質

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インテリジェンス機能強化の本質とは

高市政権の発足からおよそ一か月。日本でもようやく、インテリジェンス機能の強化やスパイ対策法の整備に向けた議論が、政権与党を中心に動き始めた。自由民主党と日本維新の会による連立合意書には、「スパイ防止法の検討」や「情報機能の強化」といった文言が明記され、戦後日本が長らく正面から取り組むことを避けてきた領域に、初めて制度的な光が差し込みつつある。

とはいえ、現時点で表に出ている議論を俯瞰する限り、実効性ある制度設計や、現場に根ざした運用のビジョンが見えてくるとは言い難い。インテリジェンスとは、単なる情報機関の統合や罰則強化では完結しない。情報は、目的を持って収集され、分析され、意思決定と行動に結びついて初めて「力」となる。この国では、インテリジェンスという営みそのものが長らく「存在しないこと」とされてきた。制度化の遅れは、そのまま文化的な空白でもある。だからこそ今、問うべきは「何のために、誰が、どのように情報を扱い、行動に転化するのか」という設計思想そのものである。

(逆に言えば、日本人にとってなにが国家機密なのか、どういう情報収集が渡航先国から警戒されるのか、といった点への認識が至っていないがゆえに一般の旅行者や企業関係者が不用意にスパイの疑いをかけられる行為に及んでしまっているともいえるかもしれない。スパイとして疑われないための海外での情報収集術については当サイト内こちらのコラムを参照されたい

その意味で、すでに制度と実践を積み重ねてきた諸外国の事例は、日本にとって貴重な先行事例だ。まずはオーストラリアとドイツのインテリジェンス機関の動向を手がかりに、国家がインテリジェンスを活用する事例を俯瞰してみたい。

〇オーストラリア:スパイ活動の経済損失を「可視化」する国

2025年7月、オーストラリアの国内情報機関であるASIO(Australian Security Intelligence Organisation)は、過去1年間(2023年7月〜2024年6月)における外国スパイ活動による経済損失が125億豪ドル(日本円で約1.2兆円)に上ったとする報告書を公表した。同報告書では、米・英・豪の安全保障枠組みである「AUKUS」に関連する機密情報や、脱炭素技術、レアアースなどの戦略物資に関する知的財産、さらには果樹の品種改良技術も標的となったことが明記されている。この報告は、スパイ行為を抽象的、あるいは概念としての脅威ではなく定量化された国家的損失として金銭換算することで、より分かりやすく国民に警鐘を鳴らすとともに、スパイ対策の正当性を喚起する試みと言えるだろう。

報告書の発表の際、ASIOのマイク・バーゲス長官は「スパイ活動の巧妙化と対象の多様化が進んでおり、国家の研究・技術基盤が長期的に脅かされている」と警鐘を鳴らした。スパイ活動の被害を「経済損失」として可視化し、国民に警戒を促す姿勢は、インテリジェンス機関の社会的正当性を高める上でも重要な一歩である。

〇ドイツ:憲法違反に基づく宗教団体の活動禁止

一方、ドイツでは2025年11月、内務省がイスラム教団体「ムスリム・インタラクティブ」の活動を禁止し、資産を没収する措置を取った。理由は、同団体がイスラム教のカリフ制国家樹立を呼びかけるなど、ドイツ基本法に反する活動を行っていたためである。この団体は2020年に設立されており、インターネット空間での活動が主とはいえ、女性の権利否定やイスラエルへの憎悪扇動などを繰り返していたとのこと。警察はハンブルクの拠点を強制捜査し、同時にベルリンやヘッセン州でも関連団体への家宅捜索を実施した。宗教的な自由と国家安全保障のバランスをどうとっていくか、難しい判断であったと想定されるが、今回はドイツの憲法秩序を優先し、活動禁止に踏み切ったものと思われる。

ドイツのインテリジェンス機関「憲法擁護庁(BfV)」は、いわば日本の公安調査庁に相当し(逮捕権がない点も共通)このような団体の監視・分析を通じて、テロの未然防止に貢献していると言える。移民・難民政策の影響でイスラム系住民が増加する中、過激思想への傾倒を防ぐためにインテリジェンスが活用されていると解釈してよいだろう。

 

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日本の現状は「情報戦の空白地帯」

次に日本の現状、我々を取り巻くインテリジェンス機関の実態をまとめてみたい。日本政府のインテリジェンス機能は弱いとの指摘はあるが、インテリジェンス機能を担う組織が存在しないわけではない。むしろ、各省庁にそれぞれの任務に応じた情報部門が点在している。たとえば、以下のような組織が挙げられる。

組織名 所属 主な任務
内閣情報調査室(CIRO)   内閣官房   政府全体の情報収集・分析(主に国内外の政治・安全保障)
公安調査庁   法務省   破壊活動防止法に基づく国内外の過激派・スパイ活動の調査(逮捕権なし)
警察庁警備局(公安・外事部門)   警察庁   テロ対策を含む国内治安維持(捜査権限あり)
防衛省情報本部   防衛省   電波・通信傍受、軍事情報の収集・分析
外務省国際情報統括官組織   外務省   外交・国際情勢に関する情報分析と政策提言

これらの組織は、それぞれの省庁の縦割り構造の中で独自に活動しており、情報の共有や分析の統合には限界がある。具体的に言えば、日本では警察庁警備局の傘下に位置づけられる公安・外事部門は海外情報や国内過激派の監視を行ってきたが、これらはあくまで治安維持の延長線上にある活動であり、国家全体の戦略的な対外情報活動とは性格を異にする。また、公安調査庁が把握した外国勢力の動向が、外務省や防衛省にリアルタイムで共有されるとは限らない。上記に挙げた各組織の情報をとりまとめ、内閣総理大臣に報告する役割を担う内閣情報調査室も存在するが、独立性や権限、予算、人的資源、分析能力、即応性といった面でCIAやMI6とは比べるべくもない。

ただし、各機関の名誉のために追記するが、現時点で各機関は定められた任務をしっかりと果たしていると当サイトは考えている。日本国内で大規模なテロに分類される事案は1995年のオウム真理教地下鉄サリン事件以来発生していない。また、国内のいわゆる「過激派」と言われる機関の活動が活発化していないこともその証左であろう。また特に防衛省情報本部などによる活動の結果北朝鮮によるミサイル発射の実態はかなり明確に把握されており、真に必要と考えられる場合にしっかりとアラートが出ていることも既存インテリジェンス機関が定められた範囲内で役割を果たしていることを示す。欧米諸国と比較をしても、国民の安全確保に十分な貢献をしていることは申し添えておきたい。

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邦人のテロ被害が相次いだ2015年にも統一的な情報機関の必要性がメディアで報じられていた(2015年3月29日付日本経済新聞記事よりキャプチャ)

ただし、では現状で十分なのか、といわれるとそうではない。むしろ制度の空白が現場の判断・各担当者の能力をあいまいにし続けているようにも見える。

過去この分野で投稿されてきた各種論文等が指摘するように日本では「インフォメーション」と「インテリジェンス」の区別すら曖昧なまま、情報の重要性が文化的に軽視されてきた傾向がある。日本大学危機管理学部教授の小谷氏は「インテリジェンスとは単なる情報の集積ではなく、意思決定に資する分析と判断を含む知的作業である」と定義し、現状の日本の情報体制が分析なき情報収集に陥っている危険性を強調している。

上述のような日本政府内の構造的問題に加え、インテリジェンス機関の研究を続けておられる小谷氏の指摘を踏まえれば、日本のインテリジェンス機能強化は、単なる組織改編や法整備ではなく、「情報をどう使うか」という国家的思考の転換から始めなければならない。情報戦の時代において、情報は資源であり、武器でもある。その扱い方を誤れば、国家の安全も経済も脅かされる。日本が「情報戦の空白地帯」から脱却するには、まずその現実を直視することが不可欠であろう。

 

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スパイ防止法の空白と制度設計の課題

加えて、2025年現在、日本には包括的なスパイ防止法は存在せず、特定秘密保護法(2013年)や刑法第100条(外国通報罪)など、断片的な規定にとどまっている。このため、外国スパイによる情報窃取が発覚しても、国外退去処分にとどまり、刑事責任を問えないケースが多い。この状況に対し、国民民主党は2025年11月、「外国の利益活動に届け出義務を課す制度」や「インテリジェンス司令塔の設置」を盛り込んだスパイ防止法骨子案を発表した。また、高市早苗首相も「外国勢力から日本を守るための法整備が必要」と国会で明言している。

 

一方で、スパイ防止法に対しては「表現の自由を脅かす」「戦前回帰の危険がある」といった懸念も根強い。「表現の自由を脅かす」「戦前回帰の危険がある」といった懸念は根強く、1985年に提出された旧スパイ防止法案が「国民の目・耳・口をふさぐ悪法」として廃案となった記憶も、いまだに議論の足枷となっている。だが、現代の情報戦は、もはや軍事機密だけでなく、経済・技術・社会インフラにまで及んでいる。2023年には、日本国内で少なくとも621件の情報漏洩インシデントが報告され(日本情報漏えい年鑑2024による)、JAXAを含む国家機関や先端技術分野へのサイバー攻撃も複数確認された。産業スパイの手口は巧妙化し、内部関係者による情報持ち出しやSNS経由の接触など、従来の対策では対応しきれない構造的な脆弱性が浮き彫りになっている。「スパイ天国」と揶揄される現状を放置することは、国家安全保障はもとより経済的な国益まで著しく損なうと言わざるを得ない。

 

2025年の自民党と日本維新の会による連立政権合意書における「インテリジェンス機能の強化」や「スパイ防止法の検討」は、戦後日本が避けてきた領域への踏み込みであり、制度化への転換点となる可能性を秘めている。だが、単に既存の行政機関を格上げし、「国家情報局」なる組織を設置するだけでは、真の意味でのインテリジェンス機能強化とは言えない。繰り返しになるが情報収集・分析にとどまらず、指揮・統制・捜査・国外活動の法的根拠を含めた制度設計が不可欠である。この点では、オーストラリアのASIOや米国のODNI(国家情報長官室)のように、情報機関を統括する司令塔を設け、戦略的な情報運用を可能にする体制の構築が必要なのではないか。

当サイトでは、インテリジェンス機能の強化に必要なの取り組みとして以下の5項目を考えている。

 

1.法的根拠の明確化 = 情報収集・分析・国外活動・捜査・逮捕に至るまでの一貫した法体系の整備。

2. 司令塔機能の確立 = インテリジェンス活動の司令塔となる機関を明確に設置し、各省庁の情報を統合・指揮。

3. 防諜機能の強化 = 外国スパイ活動の監視・摘発・未然防止を担う専門部門の設置。

4. 経済損失の可視化 = オーストラリアでの事例に倣いスパイ活動による経済的被害を定量化し、国民に周知。

5. 国民的理解の醸成 = 「監視社会」ではなく「安全保障の基盤」としてのインテリジェンスの意義を丁寧に説明。

 

情報戦の時代において、インテリジェンス機能の強化は、嵐が吹き荒れる国際情勢の中で、主権国家として日本が国際社会に立ち向かうために、今まさに必要とされている項目ではないだろうか。当サイトとして積極的に政治や行政に働きかける方針ではないが日本国内での議論の進展を見守っていきたいテーマである。

この項、終わり