防災庁発足と日英政府による「備蓄」呼びかけ
2026年11月2日、日本政府に新たに「防災庁」が発足しました。内閣府直轄の行政組織としてはデジタル庁の発足以来5年ぶりとなります。防災庁の司令塔となる細野豪志防災担当大臣は発足を前に、災害への備えとして国民自身が「最低3日、できれば1週間分」の食料や飲料水、簡易トイレなどの備蓄を行ってほしいと呼びかけました。
今回新しい行政組織の発足という注目度の高い報道の中で「緊急要請」という言葉も使われたため、「巨大地震の前兆ではないか」「政府が何か重大な情報を把握しているのではないか」といった憶測もSNS上で見られました。しかし、細野大臣の発言内容を確認すると、特定の災害発生を予告するものではありません。むしろ、防災庁発足を機に「事前防災」の重要性を改めて周知しようという意図と理解するのが自然でしょう。実はこれまでも内閣府のページや首相官邸のページでどんなものをどの程度備蓄しておくべきなのか、チェックリストを提示しながら備蓄を推奨していましたので特段新たな呼びかけというわけではありません。

興味深いのは、ほぼ同じタイミングで英国政府も家庭向け防災キャンペーン「Be Ready」を開始したことです。英国政府は各家庭に72時間分の飲料水や保存食、現金、ラジオなどの備蓄を推奨しています。想定しているのは地震ではなく、異常気象による停電や断水、サイバー攻撃による通信障害、さらには社会インフラの停止です。
日本と英国は地理的にも政治的にも、また国際情勢の影響をどのように受けるか、など文脈は大きく異なる国ですが、両国政府がほぼ同時に「平時からの備え」の重要性を訴えていることは示唆的です。そこから見えてくるのは、「行政による支援が直ちには届かない事態」を前提に危機管理を考える時代へと移行しつつあるという現実です。

これまでの危機管理は、災害発生後に行政やインフラ事業者がいち早く国民の生活を元通りに復旧させることを前提としてきました。しかし近年、過去に例のない豪雨災害やAI等を用いた大規模なサイバー攻撃など、行政やインフラ事業者だけで対処できる範囲を超えた事態が増えています。加えて世界情勢を見渡すと過去80年以上日本が無縁だった戦争の影響が生じることも杞憂とは言い切れなくなっています。行政は過去に起こった出来事を前提に準備を進め、次回以降似た事態が発生した時にスムーズに国民を支援することは比較的得意です。他方で、過去数十年間起こっていないことに対しては関連の規定や前例がなく、対応が後手に回るというのはよくあること。
実際に各国政府が求めているのは数百年に一度規模の災害や戦乱、あるいは大規模なサイバー攻撃等、前例のない事態が発生した際に「数日間を国民自身でしのぐ力」であり、そのための最も基本的な取り組みが備蓄だと言えるでしょう。
各国拠点、駐在員宅での備蓄は海外有事への備えとしてコスパ良し!
実はこうした「自助」の考え方が求められるのは災害の多い日本国内だけではありません。むしろ海外事業を展開している企業ほど、備蓄の重要性は高いと言えるでしょう。日本では大規模災害が発生しても、自衛隊や消防、警察、自治体などが総力を挙げて対応し、国内各地から支援物資が送り込まれます。しかし海外では事情が異なります。自然災害や大規模事故が発生しても、日本人を優先して助けてくれるわけではありませんし、国によっては行政機関そのものが十分な対応能力を持たないケースもあります。
一方で、海外で事業展開する日本企業の多くで現地駐在員宅や事務所に最低限の飲食料品が備蓄されていないというケースをしばしば見かけます。危機管理の世界では数百万円をかけた防犯システムや警備員の手配、あるいは防弾車よりも、数千円から数万円程度の備蓄の方が人命保護という観点では効果を発揮することも珍しくありません。
実際にインドネシア西部のスマトラ島アチェ州で国際協力プロジェクトを担当していた日本企業社員8名が洪水により一時孤立状態となりました。この当時周辺では「300年に1度」とも評される豪雨・洪水被害が広がっていました。300年に1度ということは今地球上に存在している人類は誰一人として経験したことがない事態であり、社員を派遣していた企業にとっても想定外の状況だったに違いありません。
しかしながらこの時には当該の日本人社員らは宿泊先のホテルに飲食料品が確保されていたため、健康な状態で冷静に本社や現地総領事館とやり取りを行うことができました。結果として現地に残るという判断をした責任者1名を除く、7名が無事約250キロメートル離れた北スマトラ州都メダンに避難しています。(残る1名も安全なホテルで待機できており、結果的に無事でした)
備蓄は単なる物資の確保ではなく、従業員や関係者の心理的安定にも直結します。「水がある」「食料がある」「充電ができる」という安心感は、混乱を抑え、冷静な判断を促します。日本の本社で行っているのと同じように、海外展開先で必要な備蓄品を確保し、保管場所・更新サイクルを明確にしておくことが重要です。いずれもいわゆる「ローリングストック方式」を採用すれば経費の無駄は最小限に抑えられます。

インフラが安定していない国やちょっとしたことで物流が乱れてしまいがちな国、あるいは国家間の紛争が否定できない国など日本とは比べて日常生活が揺らぐリスク要因は海外の方が多いと言えます。この点を踏まえれば、海外拠点や駐在員宅、あるいは留学生の住居に3日間以上(できれば1週間程度)の備蓄を確保しておくことは、最も費用対効果の高い安全対策の一つです。保存水や保存食、携帯トイレ、モバイルバッテリー、常備薬などは決して派手な対策ではありません。しかし、いざという時に従業員や家族の命を守る最後のセーフティーネットになります。飲食料品や生活物資の備蓄は安全対策の一部としてみなされないこともありますが、地味ながらも最も効果の高い投資の一つなのです。
不安定な時代だからこそ平時に備える
最初に触れた防災庁発足を機とした日本国民への備蓄呼びかけ、英国政府も同様のメッセージを発信している背景には、「行政がなにからなにまで対応するには限界がある」という現実があります。そしてそれは決して行政の怠慢ではなく、数百年に一度規模の災害や前例のない危機が頻発する時代においてはやむを得ない現状なのだと解釈すべきでしょう。
特に近年の危機管理を考える上で特徴的なのは、危機そのものの発生頻度だけではなく、その影響範囲が拡大していることです。かつては洪水なら洪水、地震なら地震というように、個別の事象として捉えることができました。しかし現在は、自然災害が通信障害や物流停止を引き起こし、さらに社会不安や買い占めにつながるなど、一つの事象が連鎖的に問題を引き起こすケースが珍しくありません。
特に海外では、このような影響が日本以上に長引くことがあります。日本であれば数日で復旧するような道路や通信網であっても、いわゆる発展途上国や海外からの物資に依存しがちな小国・島しょ国では復旧まで数週間単位を要することがあります。また、戦争や大規模デモのように人為的な事象であっても、結果として起きることは同じです。物流が止まり、生活物資が不足し、移動の自由が制限される。危機の入口は異なっていても、人々や企業に求められる対応は共通しています。
だからこそ、世界各国の政府が近年強調しているのは「危機を予測すること」よりも、「危機が起きても一定期間は持ちこたえられる状態を作っておくこと」です。数百年に一度の大災害や、過去に経験したことのない大規模サイバー攻撃、あるいは国際情勢の急変を正確に予測することは当サイトを含めて誰にもできません。しかし、数日から1週間程度、自力で生活や事業を維持できる体制を整えることは可能です。
備蓄というと飲料水や食料ばかりに目が向きがちですが、本質はそこではありません。危機発生直後に焦って危険な行動を取らずに済む余裕を確保すること、そして行政や企業の支援体制が立ち上がるまでの時間を安全に乗り切ることにあります。日英両政府がほぼ同じ時期に備蓄を呼びかけた背景には、まさにこうした考え方があるのではないでしょうか。
不測の事態は、私たちの都合に合わせて発生してくれるわけではありません。自然災害であれ、大規模なインフラ障害であれ、あるいは戦争であれ、ある日突然、用意ができているかに関わらず発生するからこそ危機なのです。そしてそうした危機発生時に最も影響を受け、生活やビジネスが立ち行かなくなるのは準備ができていない人や組織です。だからこそ、何も起きていない「今この瞬間」こそが備えを始める最適なタイミングです。備蓄とは災害対策である前に、自分自身や家族、そして組織の選択肢を増やすための投資なのです。
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