英国保安局(MI5)がテロを防げなかったことを謝罪
2023年3月2日、英国内の治安維持を目的にテロや犯罪の情報収集を任務とする国家保安局(MI5)の責任者が、2017年に発生したテロを防げなかったことを謝罪しました。MI5は事前に犯人が過激な思想を持っていること、また爆発物を保有している可能性があった、との情報を入手していたにも関わらずそれらを局内でうまく統合できなかった、との報告書が公表されています。
MI5と言えば、007シリーズで有名なジェームズ・ボンドが所属する(とされている)MI6(秘密情報部)と並んで最高水準の情報収集・分析を担当する機関。米国を含む各国の大手メディアがMI5のことを「スパイ組織」と評することもあるイギリスの政府情報機関トップが情報収集・分析がうまくいっていれば事件は防げた、と「謝罪」を表明した(profoundly sorry)ことは極めてインパクトの大きな出来事でした。
2017年の事件とは、同年イギリス中部マンチェスターのコンサート会場で発生した自爆テロのことを差します。若者にも人気のアリアナ・グランデさんのコンサート終了後、会場だったマンチェスターアリーナのすぐ外で爆発が発生、22名が死亡し、100名以上が負傷しました。
今般、同事案の状況を分析し犯人の過激化の経緯や治安当局が事件を防ぐことができたのか、を検証する報告書が公表されたこと、そして保安局を含む治安当局が事件を未然に防ぐチャンスが全くなかったわけではない、という結論に至ったことで、異例の謝罪に繋がったのです。
本事案の詳しい被害実態や、効果的な逃げ方などは2018年に公開したコラムで記載していますのでこちらもぜひご参照下さい。
【参考コラム】RUN:逃げるの具体的な例(何メートル逃げればいい?)
テロの未然防止のために政府治安当局は何をしているか
さて、本コラムの本題はここからです。
イギリス政府のみならず世界各地の治安当局は自国内でのテロが発生しないように様々な取り組みをしています。日本で言えば国の機関である警察庁や各都道府県の警察本部が中心に治安維持の仕組みが機能しています。また、法務省傘下の公安調査庁も国内外の過激派情報を収集し、必要に応じて政府関係機関に情報提供をしています。大多数の日本人の方は日常生活の中で意識はされていないと思いますが、
・過激派の活動状況確認
・武器や薬物等の違法取引摘発
・犯罪グループ関係者の捜査
・海外の情報機関と連携したテロ事案の予兆把握
・要注意人物の監視
・交通の要所や大規模イベント等での警備
といった取り組みが休まずに行われているのです。どれ一つとっても、一般の方の目に触れる活動ではありません。また、こうした取り組みが完璧に行われたとしても国民の皆さんから拍手喝さいを得るような成果が出る取り組みでもありません。首尾よく運んだとしても「平穏な一日が今日も終わった」というのが最大の成果です。なるほど、これではドラマや映画を作っても盛り上がりに欠けます。
他方でこうした取り組みのどこかで大小問わず、うまくいかなかった時はどうなるでしょうか?大規模なテロが起こるかどうか、は別として、犯罪組織/犯罪者による何らかの違法行為が現実のものになってしまうのです。場合によっては上述いたような数十人~数百人が死傷するような大きなテロ事件に繋がってしまうことだってあるのです。
その証拠にイギリス保安局の長官は謝罪の言葉を述べた後にこんな発言をしています。
Gathering covert intelligence is difficult but had we managed to seize the slim chance we had, those impacted might not have experienced such appalling loss and trauma
隠された情報を集めることは難しい。しかしながら、もし我々が小さなチャンスを掴むことができていたならば、これほどまでに多くの人に喪失感とトラウマを経験させることはなかった
長官自身、心からの謝罪を述べつつも治安を維持し続ける業務の難しさ、テロの未然防止につながる情報収集の難しさに改めて言及していることに気づきます。我々が日本国内で、そして世界各地で安全な暮らしを享受できているのは、情報機関や警察等多くの方が特段注目も脚光も浴びない状態で困難な業務に取り組み続けてくれているからこそ、なのでしょうね。
【参考情報】公安調査庁発表の国際テロリズム要覧のポイントを当サイト代表が解説するセミナーの報告ページ
テロ事件の調査報告書からわかる情報収集・分析の極意
さて、それではこのコラムの最後にマンチェスターアリーナでの自爆テロ事件が発生した経緯についてまとめた報告書から情報収集・分析のエッセンスを拾ってみましょう。
報告書によれば、本件の自爆犯は事件の4日前、父親の出身地であるリビアから帰国していることを当局は把握していました。MI5は本件実行犯とその弟のみが本件に関与していると主張していますが、報告書ではリビアで何者かにテロ活動への支援・指導を受けていた可能性が指摘されています。その上で、爆発物を用いた何らかの犯行にに関する情報はあったものの、この情報はMI5内での報告が遅れたとのこと。そして、マンチェスター市を含む地域を管轄するテロ対策部門にも情報は共有されていませんでした。
事件当日自爆した犯人が爆発物を保管してあった可能性が高い車両に乗って、マンチェスター市中心部のアパートで最終的に爆発物を爆弾として最終加工しています。もし、MI5が中心になって様々な脅威の予兆を組み立てていれば…。確実に犯行を防ぐことが可能だった、という結論にはなっていませんが、「テロを未然に防げた可能性はあった」ことは明記されているのです。
例えばリビアからイギリスに帰国した際に、何らかの取り調べを行うことができたのではないか?
犯行が行われる前、爆発物を保管している車両に乗り込む際に身柄を拘束することができたのではないか?
断片的なテロ関連の情報が迅速かつ適切に関係者に共有されていればどうなっていたのか?
過去の出来事にいくつif(もし~)を重ねても奪われた命は戻ってきません。しかしながら、こうした小さな積み重ねが大きな被害を防ぎきれなかったことを報告書は指摘してくれています。
本コラムの読者の大多数はMI5のような政府情報機関の所属ではないでしょう。ただ、MI5トップの謝罪にもつながった、テロ関連情報の収集状況等から、皆さんの企業・団体・学校等でも役立つ、情報収集・分析に関する三つの極意が見えてきます。
三つの極意とは以下三点です。
1)具体的なテロや犯罪計画の全体像は情報として流れてこないこと
2)断片的な情報の組み合わせ、積み重ねからテロや犯罪計画の予兆を掴むことが大切であること
3)各種情報からテロや犯罪が想定される場合には、迅速かつ安全最優先で手を打つ必要があること
まず一つ目、例えば『◎月◎日、◆◆で、▽▽グループが爆弾を使ったテロを計画中』という情報が流れてくることはあり得ません。これは皆さんが所属する企業・団体・組織だけでなく、国家の情報収集・分析専門チームですら入手しえないレベルの情報構成です。なぜなら、このような情報が流れてしまった場合、その計画(テロや犯罪)は確実に防御されてしまうからです。もし、誰かこうした情報を持っているのであればそれは実行犯の一味、それもかなり幹部の位置にいる人間でしょう。
逆に言えば、皆さんが海外の事業拠点や外部のセキュリティコンサルタントに「いつ、どこでどんな脅威がある、という情報はありますか?」という質問することは無意味です。それがわかっていれば、誰も安全管理に関する情報収集・分析で苦労はしませんし、もしそこまで具体的な情報が入っているのであれば海外の事業拠点もセキュリティコンサルタントも皆さんに聞かれる前に提供してくるからです。
では、そうした具体的かつ確固たる情報が流れてこないとすれば、どうあって情報を収集・分析するのがよいのでしょうか?それがポイントの二つ目。イギリス保安局のようなスパイ的な情報収集を行う組織ですら、断片的な情報を組み合わせて脅威の有無を観察しているということです。
今回の報告書では具体的にどんな情報だったかは書かれていないものの、テロに関する情報の断片が2つあったことが示されています。実行犯が一定程度過激な思想を有していること、直前までリビアに滞在していたこと等、そして断片的な情報2つを組み合わせ、適切に推論できていればどこかの段階でテロを未然に防ぐことができたかもしれない、と書かれています。
海外で事業を遂行される皆さんの団体も例えば
現地の経済状況
一般市民の生活ぶり
武器や爆発物(材料)の盗難情報
現地での政治的/民族的/宗教的問題の動向
といったビジネスや生活の中で入手可能な情報をつなぎ合わせることで従業員・関係者皆さんの安全度を高められる可能性があると言えますね。必要なのは単に情報を集めておいておくことではなく、そうした情報を体系化し、つなぎ合わせ、自分たちの安全を守るために活用できるか。一般的な安全対策部門/危機管理部門が行っている情報収集は単にデータやニュースをやみくもに集めたり、それをリスト化するところでとどまっています。
山と積まれた各種情報の統合や、情報の断片の重要性判断、そして情報同士のつなぎ合わせができて初めて企業・団体・学校の従業員/関係者の安全を守るための「インテリジェンス」がうまれるのです。MI5が今回テロを防ぎきれなかったのはまさにこの部分、集めた情報を情報のまま放置し、「インテリジェンス」に高めることができなかった(あるいは高めるタイミングが遅かった)ことが原因です。
最後のポイントは、本当の意味で従業員・関係者の命を守るためには情報収集・分析だけでは不十分ですよ、という点。実際に安全を確保するには、情報収集・分析をする部門だけでなく、現地警察や警備会社、そしてなにより現場の最前線で活躍している従業員・関係者本人の協力が不可欠です。報告書にもある通り、MI5からテロ対策ユニットへの情報共有が行われていれば、もしかしたら犯行直前に不審に会場周辺を行き来している犯人に職務質問くらいはできたかもしれません。
情報収集・分析に加えて、適切なチームとの情報共有と連携は皆さんの身を守るための必須要素です。
この項終わり